丸沼芸術の森

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2011年6月18日開催 美術鑑賞会

テーマ:「日本の彫刻-仏像から現代彫刻へ」

講師:大橋博(彫刻家)

講義する大橋氏

講義する大橋氏

私は東京造形大学で佐藤忠良に学び、東京芸術大学大学院で文化財保存修復を学び、仏像の修復や模刻を経て、現在は木彫を中心に自分自身の作品を制作し、今年の春から丸沼のアトリエにやって来ました。今日は丸沼コレクションを通し、近代以降の日本の彫刻と、それ以前の日本の彫刻(仏像)についてお話します。 現代の彫刻として、丸沼には石彫を多く手がける渡辺一宏や、木彫の儀保克幸らの彫刻家もいますし、丸沼を卒業した村上隆もFRPによる彫刻作品を発表しています。丸沼から離れてみると、例えばフランスのジャン・アルプの作品のように抽象彫刻と呼ばれるものもあります。また、アンディー・ゴールズワージはススキを中空に配置したインスタレーション作品、クリストはアースワークとも呼ばれる巨大な彫刻を発表しています。さらには、ヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」というものもあります。これらを考えると、「彫刻」とは何なのか、実のところ私の理解を超えている部分もあります。ですが、これまで私なりに、どのように彫刻を眺めてきたのかをお話したいと思います。

「彫刻」「美術」とはヨーロッパから明治以降に作られた言葉で、新しく持ち込まれた概念ですが古くから日本にある仏像は彫刻と密接な関係にあります。では明治以前の仏像について、素材から見て行きましょう。ブロンズによる金銅仏、法隆寺の塔本塑像のように粘土による仏像もあります。これは粘土といいましても、中には芯棒が入っていて、そこに粗い土を盛った上に最後に粒子の細かい土で仕上げる、壁土のような素材です。新薬師寺の十二神将像をX線で撮影すると中に木組みがあることが確認できます。かつての木造住宅の土壁の竹小舞と同じように、芯材があって、粘土が盛られている事で像が自立し、長い年月を経て現在もその姿をとどめています。また、石を彫った石仏もあります。そして、最近の仏像ブームでも一際人気の高い、興福寺の阿修羅像は乾漆、漆でできていて、芯棒はありますが、中は空っぽで非常に軽いものです。聖林寺の十一面観音も乾漆ですが、中に木が入っています。芯となる木の表面に漆と木屑を混ぜた材料で塑形、つまり粘土のように用いています。次に仏像のイメージと言えば、やはり木ですね。一木造の代表的なものとして唐招提寺の四天王像があります。もう一つ、木彫の仏像の代表的な技法として寄木造りもあります。平安の初期頃から多用される技法です。一木造では不可能な大きさ仏像でも複数の木を寄る事で制作が可能になりました。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像はその中でもスター的な存在ですね。
私自身も大学院で実際に寄木造を行いました。X線撮影を行うと中が空洞になり、鎹(かすがい)で複数の木材が寄せて接合される様子も見られます。中を空洞にする事によって表面が割れないようにしているのです。昨今では重要文化財などの仏像を維持する為に、本尊の模刻(もこく)を制作し拝観の為に設置、元々の仏像は他の場所に保管する例もたくさんあり、私自身も模刻を制作しました。複数の木材を接着して作った太い柱から胴体を彫り出し、さらに腕などを別の木から彫り、接合し、最後に古色(こしょく)という、本物に近づける為の彩色を行います。一言に「仏像」と言っても、技法の面からだけであっても長い歴史と幅広い様式があるとお分かりいただけたと思います。

ここから明治以降のお話になります。西欧文明に追いつこうと明治政府が取った政策の一つから、工部美術学校(東京芸術大学の元となるもの)の設立があります。教授として、絵画にはフォンタネージ、建築・デザインにはカペレッティ、そして彫刻にはラグーザというそれぞれ、ヨーロッパからの「お雇い外国人」を招致します。面白いエピソードなのですが、初めて学生を募集した際に、絵画と建築は生徒が十分に集まったにも関わらず、彫刻については定員を満たす応募がなく、やむを得ず、学費などを免除して、ようやく生徒をかき集めたという事がありました。これは西欧から輸入した美術の中でも、「彫刻」というものが日本人にとって、どれほど理解されにくいものであったかを物語るエピソードだと思います。それまで日本には仏像や根付、人形などはありましたが、それは芸術家ではなく、細工師や仏師の範疇にあるものです。当時、活人形(いきにんぎょう)というリアルな人形を作る技術もありましたが、それは見世物であり、人を等寸に形づくるものが「美術」という新しい概念と結びつけて考えられなかったのです。仏師からスタートして彫刻家になった高村光雲もこの当時の戸惑いについて文章に綴っていて、とても興味深い所です。このラグーザは石膏像をヨーロッパから日本に持ち込み、学生にデッサンを行わせているのですが、16世紀にローマで始まった石膏デッサンが現在も日本の美術教育に欠かせないものとなっているのは驚きですね。

高村光雲は日本で初めて彫刻家になった人物です。浅草の仏師がシカゴ万博に《老猿》を出品し高い評価を受け(現在は重要文化財)、さらに、やはり日本にそれまでなかったモニュメント彫刻である、上野公園の西郷像なども制作、東京美術学校開校時に彫刻科の教授として迎えられます。ですが、「彫刻家」として西欧にも評価された光雲は西郷像の原型も木彫で制作しており、仏師であり続けた人物と言えます。つづいて山崎朝雲はヨーロッパ式の塑像の教育を受けた世代になります。木彫も塑像も両方行いますが、それを見事にミックスした類稀な人物です。平櫛田中は朝雲と同世代で、もちろん塑像も行っているのですが、自身の作品としては木彫にこだわり続けました。《鏡獅子》を見ると歌舞伎役者の衣装の裾や髪が実に勢いよくスパッと削り落とされているかのような印象を持ちますが、実はこれは、逆にゆっくりとゆっくりと時間をかけて息を切らさずに彫っていたのです。この三人は明治以降の日本の木造彫刻の礎となった人物です。朝倉文夫は東京美術学校の塑像科(もう一つ木彫科があった)のエリートで、様々な逸話があります。とある話ではあまりの卓越した才能の為、学生時代からひっきりなしの注文に応じて、なんと卒業までに1200点もの作品を作ったとの伝説まであります。そのお陰で、現在の朝倉彫塑館であるアトリエ兼住居を建てて、多くの後進を指導できた人物です。粘土で原型を作り、ブロンズ作品を制作する、西欧式の彫刻の申し子である朝倉が、この丸沼コレクションでは実に不思議な事に《鋳銅双鶏置物》という作品を残しています。「置物」とは、その後の世代の彫刻家にとっては彫刻や芸術には値しないという、蔑みの意味合いが大きい言葉です。その後の日本の彫刻界に大きな影響を与えた朝倉が自分の作品に「置物」と名付けているのは、朝倉自身は「彫刻」や「美術」といわゆる「工芸」を区別していなかった証拠とも言えます(この推察から私個人は朝倉に強く共感を持ちます)。この朝倉文夫の時代に日本の彫刻界に大きな影響を与えたのはロダンです。高村光太郎は自分の父親である、光雲を否定してまで、ロダンを追い求めた彫刻家です。

そして朝倉や高村光太郎の次世代として、柳原義達や佐藤忠良が挙げられます。常に新しい世代は前世代を否定します。それは、彼らにも当てはまります。デスピオはロダンの助手の一人ですが、柳原も佐藤も、若い頃の作品にはデスピオの影響を色濃く見る事ができます。彼らは情報が少ない時代、雑誌の小さな図版を穴があくほど眺めて、新しい彫刻を考えていたそうです。柳原は戦後フランスに渡り、リシエに学んで作風を大きく変えます。一方で対照的に佐藤は日本にとどまり、「日本人による日本的日本人の最初の表現」と評価される(1953年《群馬の人》)までになります。一時はデスピオの影響が色濃かった二人がその後、それぞれ柳原は柳原に、佐藤は佐藤の独特の作品になっていったのは実に面白い事であります。

私自身は佐藤忠良に大学時代に学び、とても尊敬し作品も大好きなのですが、同じように粘土で塑像を作ると、どうしても似てしまう。木彫に進んだのは単純に尊敬の気持ちと反発の気持ちが混ざり、その影響から脱したかったからです。ですが、このように明治以降の彫刻作品を並べて見て気がつくのは、全てが連鎖し、影響を後に残している事です。自分が自分になる為に影響を素直に認められる事は重要です。そして私自身もこの彫刻の脈々とつながる連鎖の輪の中に入っていきたい。今後も彫刻とは何か、を自分自身に問い続けていきたいと思っています。

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