丸沼芸術の森

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2011年9月17日開催 美術鑑賞会

テーマ:「ヨーロッパの風景画」

鑑賞会風景

《ヴィル・ダヴレーの湖畔の朝霧》
1868-70年 油彩、キャンバス
40×56cm

風景画は、印象派を始め、多くの画家が描き、日本でも人気の高いものですが、それがどのような形で発展したものなのか、コローを中心に紹介したい。ヨーロッパでは、19世紀半ばまでは、宗教画や歴史画などが絵画の中でも重要なもので、風景画は地位の低いものでした。例えば、丸沼が所蔵し、埼玉県立近代美術館に寄託している、《聖ステパノの遺骸を抱え起こす弟子たち》は、ロマン主義の代表的な画家ドラクロワの作品ですが、この作品は聖書の一場面を描いたものです。ステパノとはキリスト教の聖人で、石打の刑で亡くなり、宗教画でよく描かれる人物です。この作品は処刑場で遺体となったステパノを抱え起こす弟子達、そしてその添え物として風景が描かれています。

ではなぜ、風景画が人気のある絵画になったのか。一つは19世紀、都市の近代化と工業化に伴って、失われてゆく自然への憧れる気持ちが人々に芽生えた事が挙げられる。そしてチューブ入り絵具が開発された事も大きな理由の一つです。画家はそれまでアトリエで絵画を描いていましたが、その理由の一つは画家が自分の手で絵具を調合しないといけなかったからです。そして絵を買う消費者が王侯貴族や教会から商売に成功した市民へと移り、趣味が多様化した事も挙げられます。こういった事情の中で、19世紀半ばに風景画が新たなジャンルとして確立されていきます。

印象派の先駆けとなったバルビゾン派はパリの南東60キロに位置するフォンテーヌ・ブローの森で風景を描きました。コローはバルビゾン派の中では先輩格にあたり、フォンテーヌ・ブローやヴィル・ダヴレーの森で風景を描きました。20代で画家を目指し始めたコローはパリで画家ミシャロンとベルタンに師事した後、イタリアへの留学など伝統的な絵画を学ぶと同時に、独自に写生の研究を重ねました。印象派などの後の風景画家は目に見えるままの自然を描こうとしますが、コローは風景画家の先駆けであると同時に、伝統絵画の最前線にいた画家でもあり、描く対象への姿勢は印象派とは異なっていました。コローは写実的な写生の習作をもとに、別々の景色や人物などを効果的に配置して再構成しました。つまり目に見えるままの自然を描いたのでは無く、独自の演出をして描いていたのです。そして、後の印象派は「サロン」というフランスの国家による展覧会と、対立する形で活躍しますが、コローはその点でも立場が違っていました。
コローは1827年32歳でサロンに初入選します。そして後にはサロンの審査員にもなっています。そして50代を過ぎた1850年頃からは「銀灰色」と呼ばれる薄靄のかかった、詩情溢れる風景を描く独自の画風を確立します。そして1864年サロンに出品する《モルトフォンテーヌの思い出》は政府に買上げられるなど、コローの作品は高く評価され、広く愛された。また年下のバルビゾン派の画家達からは「コロー爺さん」と親しまれ、また若く貧しい画家たちの援助も行っていた。

丸沼の所蔵品《ヴィル・ダヴレーの湖畔の朝霧》は晩年、1860年代末頃の作品です。ヴィル・ダヴレーは元々コローの父親が立てた別荘を自分のアトリエにしたもので、長年にわたって、この地は重要な制作場所であり、周囲の自然は作品の重要なモデルになりました。この作品もコローの特徴である、靄に包まれたような銀灰色の水面に一層の舟が浮かぶ、とても詩的な景色が描かれている。

続いてモネですが、《ルエルの眺め》はまだ10代だったモネが描き、初めて展覧会に出品したものです。モネの画家としての出発点となる非常に意味のある作品です。
モネはコローからの影響を強く受けている一人ですが、晩年「私が知っている事はコローが私達に非常に辛くあたったという事だ。ひどい人だ!彼は私達に対しサロンのドアを閉ざしたのだ。ああ、彼がどれだけ私達を酷評し、まるで罪人のように責めた事か。そしてどれだけ私達が例外なく彼の事を賞賛したことか」との言葉を残しています。ところがこれは、モネの誤解だったのです。
コローの作品は後に続く印象派に非常に近い性格を持ちながらも、それまでの伝統的な絵画の枠の中で活動していました。ところが、印象派は伝統絵画から否定され、サロンに落選を続けた為に、印象派展を自分達で組織して開催します。さらに、コローはサロンの審査員の一人でしたから、コローと印象派の間の関係が複雑であったと言えます。
モネは1859年のサロンでコローの作品に初めて出会い、素晴らしいと、ブーダンに宛てた手紙に記し、また、印象派の友人の画家バジールに1864年に送った手紙に、自分の作品について次のように書いています。
「この作品は最初から最後まで自然をもとに描きました。君はそれに何らかのコローとの類似を見出すかもしれませんが、私は意図的に真似しようとしたのではありません。」
さらには晩年にはコローと印象派の展覧会に訪れた際に
「ここには大家は一人しかいませんよ、つまりコローです。私達など彼に比べたらものの数ではありませんよ」とも語っている。
コローがサロンの審査員になったのは、1866年でした。この前の年、サロンでは大問題になった作品がありました。それは、マネの《オランピア》です。明らかに売春婦を描いた挑発的な作品は、神聖な絵画を汚したかのように大きな非難を受けました。そこで、サロンの主催者は、その審査をより厳しくするために審査員を大幅に増やし80名とします。その中にはコロー、そしてバルビゾン派のコローの仲間である、ドービニーが含まれていました。この二人が審査員になった年のサロンでは、モネは《カミーユあるいは緑衣の女性》という作品で入選をしています。一方で、ルノアールは落選したのですが、ドービニーはルノアールに次のように言葉をかけます。
「私たちも手を尽くしたのだよ。こうならないためにできることのすべてをやった。何度もこの絵を通そうとしたのだが、受け入れてもらえなかった。しかし、どうしようもならないのだよ。賛成するのは私たち6人だけで、残りは全員反対なのだから」

そして、その2年後1868にはルノアールは《日傘をさすリーズ》でサロンに入選を果たします。ですが、モネは1867年には落選していました。この時の落選をモネはコローの意図だと勘違いしてしまっていました。ですが、実情は新しい絵画を目指す世代に寛容なコローやドービニーの努力に対し、反対派が根強い中、モネを通せばルノアールが落選し、ルノアールを入選させれば、、、という繰り返しであったものと思われます。そして、コローもドービニーも、1870年にモネを含め多くの新派の画家が落選した際には審査員を辞退しています。つまり、コローはモネを含めた印象派に取って重要な先駆者であり、理解者だったのです。ところが、モネのコローに対する誤解は解けないままだったようです。ですが、作品の重要性は深く理解し、晩年になってもコローの作品の研究を続けました。

やはり印象派のピサロ。出身はパリでは無く、カリブ海のセント・トーマス島。当時はデンマーク領で現在はアメリカ領となっている島で、フランスから移住した両親のもとに生まれます。家業の雑貨商を手伝っていたピサロは、20歳頃に知り合ったデンマーク人画家からの影響で画家を志します。そして25歳頃にフランスに渡たり、1855年のパリ万博で見た、コローの田園風景を描いた作品に強く感動しました。ピサロは自分の作品を持ってコローに会いに行き、指導を受けます。コローは自分のスケッチをピサロに自由に模写をさせたり、時には素描をプレゼントしたりもします。一方で、ピサロはモネやルノアールらと交流を持ち、1874年第一回印象派展に参加します。個性が強く必ずしも意見が一致しない画家達を、温厚で人望の厚いピサロが結びつけ、その組織作りも主導しました。そして、回を重ねる度に大きくメンバーが入れ替わる印象派展だったのですが、最後となる第八回展(1886年)まで全て参加したのは唯一ピサロだけでした。印象派の中でピサロはモネやルノアール、セザンヌなどと比較すると少々陰が薄いように感じますが、印象派の中で最年長で、セザンヌは「ピサロは私にとって父のような、慈愛に満ちた存在だった」とも語っており、とても面倒見も良く、印象派の調整役的存在でもありました。ピサロはゴーギャンやセザンヌに印象派展への参加を勧めたり、特にセザンヌには指導をしたり、その初個展を画商に掛け合ったりもしています。丸沼の所蔵作品《草刈する女性》 は小さなものですが、田園で働く農民を好んで描いたピサロらしい作品であり、また、やさしい画面からは、その人柄も感じられると思います。

続いてマルケです。美術学校時代に知り合ったマティスと生涯親友として交流し、マティスと共に20世紀初頭にフォービズムで新しい絵画を生み出した画家です。2人は美術学校を出てから共同でアトリエを借り、お互いに影響を与えながら作品を描き、激しい筆遣いの作品を発表して「野獣のようだ」という意味から「フォーヴ」と呼ばれます。ですが、マティスは1910年代、アフリカ彫刻と出会います。マティスはアフリカ彫刻をピカソやブラックにも見せ、ピカソ達はキュビズムへと繋げて行きますが、マティスは独特な曲線を見出します。そしてマルケは激しい色彩のフォーヴからは大きく離れ、落ち着いた色調の風景画を描くようになります。これは、マルケが幼い頃、港の風景を一日眺めていたことや、あるいは美術学校時代、模写に加えてパリの街角をデッサンするようになった事などが時間をおいてマルケに影響を与えたものと思われます。マルケの風景画は霧や霞が風景を覆う中間色の柔らかい色調が特徴です。そしてこちらの《アルジェの港》はタイトルの通りアルジェリアの首都、アルジェの港を描いたものですが、北アフリカのアルジェリアはマルケにとって、非常に縁の深い所です。マルケは非常に旅行が好きな人物で、各国を旅していたのです。アルジェリアは百年以上にわたってフランスの殖民地だった国です。1920年、34歳の頃に、アルジェリアを訪れたマルケは、後に妻となる女性と出会い、それ以来、ほぼ毎年、夫婦でアルジェを訪れていて、第二次大戦中は6年間、アルジェで暮らしています。マルケは旅先の港町を多く描いているのですが、このような理由でアルジェの港は特にマルケにとって重要なモチーフです。フォービズムという前衛の最前線にいたマルケは後にこのような落ち着いた風景を描くようになったのは多少以外な印象かもしれませんが、マルケは派手な振る舞いや名誉には関心が無く、生涯に渡って比較的穏やかな生活を送っており、フォービズムの時代よりこのような作品の方がマルケの人間性に近いものと言えます。そしてマルケもコローに影響を受けた一人です。学生時代ルーブル美術館でコローの作品を好んで模写し、また画家として収入が安定すると他の画家の作品を購入していたのですが、コローの作品も購入しています。そして自然豊かな湖と人工的な構築物である港という違いはありますが、霞の向うの水面に効果的に舟が配置される風景という面では類似性も感じさせますね。マルケも靄のかかったような風景が特徴であり、「マルケのグリ(灰色)」と呼ばれています。

最後にキスリングです。キスリングは第一次大戦後から1920年代にかけて、大きく盛り上がったエコール・ド・パリの作家の一人です。ポーランドの美術学校を卒業した後、画家を目指して一人でパリに出てきたキスリングは持ち前の社交性でピカソやブラックなど多くの画家と交流し、キュビズムの影響を強く受けた作品を描きます。そして交流を持った画家の中でもモディリアニとは非常に仲が良く、二人とも貧しかった時代、助け合い、モディリアニが亡くなった際には葬儀の手配をしたエピソードも残されています。キスリングは当時の人気モデルや女優などを瑞々しく描いた作品で人気を博しましたが、風景画、中でも港を好んで描いた事も知られています。丸沼の所蔵作品は《アムステルダムの眺め》という作品ですが、アムステルダムにはキスリングのコレクターで、友人でもあった医者が住んでいた事から、キスリングが何度も訪れて描いた場所です。
キスリングはこれまでご紹介してきた、画家と異なり、直接的にコローの影響を受けたという文献は無いのですが、作品を見る限り、明らかに印象派以降の風景画ですね。そういう意味では、間接的にコローの影響を受けていると言えます。と、言いますのも、最初の印象派展の際、コローの友人の一人がそれを見て、次のように語っています。
「ああ、コロー、コローよ、君の名において犯されたる罪たるや!こんなぞんざいな作風、薄塗り、絵具のしぶきを流行させたのは君なのだ」これは、コローを非難する言葉ですが、その後の世代に与えた影響の大きさが分かります。

さて、本日は比較的、コローに重点を置いてお話を進めてきましたが、ヨーロッパ、フランスにおいて、風景画というものが、19世紀に大きく発展してきた事が良くお分かりいただけたかと思います。それまでは、神話などの物語が必ずあった上で、その舞台としての風景がキャンバスに描かれていたものが、コローによって、物語を想起させる風景が描かれ、そしてモネを始めとする印象派の画家達によって、物語から完全に切り離された風景のみの絵画が誕生し、風景画というジャンルが確固としたものになりました。その後、フォービズム、キュビズムなどの多くの芸術運動によって新たな絵画が生まれますが、マルケやキスリングのように、先鋭的な絵画から転向して、心休まる風景を描いた画家もたくさんいた事が分かります。本日は19世紀半ばから20世紀前半の100年弱の風景画の流れを丸沼コレクションよりご覧いただきました。

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