丸沼芸術の森

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丸沼芸術の森 美術観賞会  2011年11月26日開催

テーマ:「ヘンリー・ムア」
講師:丸沼芸術の森 学芸員

ヘンリー・ムアは1898年、炭鉱で働く父の7番目の子供として、イギリス北部ヨークシャー州カッスルフォードで生まれます。父は正に炭鉱で肉体労働をする炭鉱夫でしたが、後に独学で数学や技術を学び、炭鉱技師となります。そして子ども達への教育にも熱心な人物でした。小学生の頃のムアは美術の授業や、小さな木の塊や石を彫るのが好きな少年で、日曜学校でミケランジェロを学んだ際には、将来は彫刻家になりたい、と考えるようになります。その後、何人かの兄と同様に、ムアも17歳で小学校の教師となります。19歳の時、第一次大戦に出兵し、「戦場で英雄になりたい」との思いを抱きますが、毒ガスの被害を受け入院、治療を終えて間もなく、終戦を迎えました。21歳でヨークシャー州西部のリーズ美術学校に入学。初めて専門的な美術教育を2年間受けた後、奨学金を得て、ロンドンの王立美術学校に入学します。

この頃を回想したムア自身の言葉です。

 「学校の最初の数ヶ月で、私は美術学校など何の役にも立たないというロマンティックな考えをすっかりなくし、できる限り一生懸命モデルの人体素描を始めました。彫刻家は三次元のフォルムを正確に理解し、それを視覚的に分からなくてはならない。それができるようになるのは、大変な努力と経験と戦いによってだけです。そして人間の形態は人間が想定しうるもっともやっかいな主題であると同時に、最もよく知っている主題でもあります。人間の形態の構造、均衡の中の途方もない多様性、大きさ、リズムといったすべてのものが、他のどんなものより、素描において人間というものを把握するのを難しくさせているのです。

この言葉から彫刻家としてモデルをデッサンする重要性を学生時代から悟り、生涯に渡って人体表現にこだわりつづけたムアの姿勢を理解する事ができます。そして、ムアは美術学校だけではなく、多くの美術館や博物館、図書館にも通い、精力的に様々な時代や地域の彫刻を学びました。美術学校の彫刻クラスの指導はギリシャ彫刻を模範としたものでした。しかし、徐々に興味の範囲がアフリカ美術などにも広がっていったムアにとって、美術学校の授業では満足できなくなります。しかし、モデルを使ったデッサンができる事から学校には通いつつ、学校で学ぶものとは別の作品を目指すようになります。

中でもメキシコの彫刻から大きな影響を受けました。当時のムアの作品を見ると、伝統的なヨーロッパの彫刻には無い、ゆったりとした姿勢や豊満な肉体が表現されている事が分かります。そして彫刻にはマッス(塊)と素材感という重要な特徴がありますが、ムアは素材の持つ性質を活かした表現を強く意識した事が分かります。

ムアは一貫して人体像を制作しますが、それについてのムアの言葉です。
「横たわる人体は、最初から私のメイン・テーマです。私が最初に作ったのは1924年頃のもので、それ以来、私の彫刻のおそらく半分以上は横たわる人体です。
私の彫刻はすべて人体を基礎にしている。私の場合、3つの主題が繰り返される。《母と子》《横たわる人体》《内/外のかたち》である。
人体の基本となるポーズが3つある。まず立っているもの、次に座っているもの、そして横たわっているものである。しかしこの3つのポーズのうちで横たわる人体像は、構成や空間を考えるのに、最も自由がきく。横たわる人体像はどんな面の上にも横たわることができる。自由でもあるし、安定してもいる。これは、彫刻は恒久的で、永遠に向かって持続すべきだとする私の信条にあっている。」

ムアにとって生涯のテーマである、《横たわる人体》に彫刻を始めて数年で出会った事になります。ムアは王立美術学校の講師の職を得て、作品への評価も高まり、わずか32歳でベネチア・ビエンナーレのイギリス代表に選ばれるなど、順調に彫刻家としてのキャリアを積み重ねます。ピカソやシュルリアリズムの作家達とも交流し、1930年代も実験的作品も制作し続けます。

そして、1939年の第二次大戦の勃発によりムアの作品は転換期を迎えます。1940年、ナチスによるロンドンへの空爆が始まり、最初の2ヶ月間は、毎晩10万人もの人々が地下鉄構内に避難します。ムアは日頃は自動車を使っていましたが、ある夜、車で移動していた最中に空襲警報が発令され、地下鉄構内に避難しました。

「私はそんなに大勢の横たわった人間をみた事はありませんでしたし、地下鉄のトンネルさえもが、私の彫刻の穴のように思いました。恐ろしいような緊張感のなかでお互いに見知らぬ人々が親密な集団を形成しているのに気付きましたし、通過する列車のそばで子供が眠っていました。」

ムアはこの様子に魅了され、記憶を頼りに地下鉄防空壕の様子をデッサンしました。そのデッサンを、ナショナルギャラリーの館長であり、当時、戦時芸術家諮問会委員長であったケネス・クラークが目にします。クラークは地下鉄防空壕のデッサンをシリーズとして描くようにムアに要請します。
ムアは地下鉄構内ではデッサンはせずに、簡単なメモだけ取り、自宅に帰ってから2日かけてデッサンを描く作業をつづけました。子供を守る母親や、見知らぬ同士が毛布を分け合う姿に、ムアは10年以上前に、メキシコ彫刻などの原始美術を見た時と同じ、生命感を受け取りました。空爆に耐えるロンドン市民を描いた一連のシリーズによって、ムアは美術的な名声だけでなく、国民的な名声を博する事となります。

そして、ムアにとって、この地下鉄防空壕のシリーズは、それまで避けていたギリシャ彫刻を見直すきっかけにもなりました。ギリシャ時代の彫刻には衣をまとったものが数多くありますが、ムアの彫刻にはそれまで、衣をまとったものはありませんでした。ところが、地下鉄の構内で毛布をかぶった人々を描くうちにムアは気がつきます。
「ドレープは人体の持つ緊張を強調できる。というのは、肩、ふともも、胸などのように形態が外へ押し出すところでは、ドレープはその形態を挟んできつく引っ張られ、対照的に、突起した部分の間に垂れ下がるドレープのたるみによって、人体の内側からの圧力がいっそう強められるからである。また、ここでは小さく細やかで繊細な、そこでは大きくて重々しい、といったひだの大きさの対照を、地表のうねり曲がった皮膚である山々の形態と連関させることを考えていた。」
戦後になるとムアは様々な公共の空間へ巨大な彫刻を設置するようになります。さらに今の言葉のように、大地と連関する作品を多く制作しています。
中でも元々はムアの自宅(現在のムア財団)の広大な敷地に屋外展示された作品群は、大地に堂々と横たわり、見事に自然と呼応し合っています。

ヘンリー・ムアはイギリスにおいて「国の宝」と言われるのを始め、世界的にも非常に高く評価されるのは何故でしょうか。批評家のハーバード・リードからの強い後ろ盾や、地下鉄防空壕のデッサンで得た名声もありますが、それだけが理由ではありません。20世紀を代表するもう一人の彫刻家、イサム・ノグチと少し比較してみます。ムアは1898年生まれで1986年没、ノグチは1904年生まれ1988年没。ほぼ同じ時代を活動期間としたノグチも、大地や自然の形態を強く意識した作品を数多く作っています。ムアやイサムが彫刻を始めた20世紀前半は19世紀までとは大きく異なる美術が花開いた時代です。それまで美術はヨーロッパの文化を中心に培われていたのが、アフリカなどのヨーロッパ以外の文化の影響による美術が多く現れました。ムアはメキシコに、ノグチは日本に新たな可能性を見出しました。ムアもノグチも2人とも特定の芸術運動に深く長く関わる事は無く、独自のアプローチを進めた結果、自然そのものが持つ形態の美しさや大地との関わりにたどり着いたのです。二人の作品を同一線上に置く事はできませんが、20世紀後半以降の芸術を広く見渡した時に、彼らに共通する先見性は非常に大きな影響を与えたと言えます。

参考文献=
「ヘンリー・ムア」ジョン・ラッセル著 福田真一訳 財団法人法政大学出版局発行
「ヘンリー・ムア 生命のかたち」展図録 ブリヂストン美術館

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